私の100冊

TLで流行っていた企画。

100冊なんて絶対無理だろと思ってみたものの、やってみたら案外いけることが判明したのでやってみようと思いました。

ただ、収拾がつかなくなると困るので、いくつか私的レギュレーションを。

 

  • 挙げるのはいわゆる「文字の本・文章」に限る(漫画・画集等は除外)
  • 興味を持って読もうと思い立ってくれた人が困る可能性がある本(専門知識を要する本・Amazonで簡単には買えない本など)は避ける
  • シリーズものを「〇〇シリーズ」として挙げることは極力避け、一冊あるいは一編の単位でピックアップする。
  • 著者一人に対して挙げるのは、原則として一冊。ただし、選考基準が異なる場合などはその限りではない(ミステリ作家として一冊、SF作家として一冊、などはOK)。

 

もちろん、これらのレギュレーションは自分で勝手に作っているものなので、時として自分で勝手に破ったりしています。

 

大体丸2日でやった突貫作業なので、いろいろ不完全なところがあるかと思いますが、ご了承ください。

 

※ 注意 ネタバレ上等です ※

 

 

  1. サトウハチロー『サトウハチロー詩集』

 サトウハチローという詩人から一冊(というより本としてはこれしか読んだことがない)。

 小学校の校歌が同氏の作詞であり、一、二年生の時の担任が彼の詩を大好きということもあって、読み聞かせられる機会が多かった。だけど一、二年生には流石に難しかった……。

 それでも、たとえば「ちいさい秋見つけた」の

 

お部屋は北向き くもりのガラス

うつろな目の色 とかしたミルク

わずかなすきから 秋の風

 

などは、幼心にも何か尋常ならざるものを感じさせられたのですごい。

 

 

  1. ヒュー・ロフティング著、井伏鱒二訳『ドリトル先生月から帰る』

 小学生の頃、何度も何度も繰り返し貪るように読んでいた「ドリトル先生」シリーズから一冊。

 同シリーズから一冊挙げるとした場合、『アフリカゆき』『航海記』『郵便局』『サーカス』といった序盤の作品群から選ばれることが多い気がするものの(大きくなって改めてシリーズを全て読み返してみたところ、これらが実際優れていると感じた)、小学生の頃に一番読み返していたのは「月から帰る」であったためセレクト。

 もっとも、ドリトル先生不在の家を一人支えるトミー、ドリトル先生の帰還と思い出話、コミカルな逮捕騒動にハートフルなエンディング――と、そうページ数があるわけでもないのに多彩な展開が用意されているのはすごい。

 

 

  1. ウィリアム・サローヤン著、小川敏子訳『ヒューマン・コメディ』

 第二次大戦中のアメリカの街を舞台とした、サローヤンの長編。

 小学生の頃に通っていた公文式の教材に一部抜粋が取り上げられていたのが最初の出会い。引用されていたシーンは、電報配達のアルバイトを行う主人公の少年が、街の婦人に息子の戦死の報を届け、泣きじゃくる婦人に「私の坊や!」と言って抱き締められるというもの。幼心に衝撃を受けた。

 本編を読んだのはそれから10年後くらい。揺るぎない良いお話だった。

 

 

  1. ジーン・ウェブスター著、岩本正恵訳『あしながおじさん』

 有名児童文学から一冊。もちろん訳は多数。今家にあるものを掲げた。

 孤児院に暮らす女の子ジュディは、匿名の支援者「あしながおじさん」に文才を見出されて作家を目指すための学費援助を受けることとなり、その見返りとして、日々を綴った手紙を定期的に書き送ることを約束する。この作品は、「あしながおじさん」に対して送ったこの一連の手紙によって構成される書簡体小説で、物語の最後で「あしながおじさん」の正体が自身の恋人であったことが明らかになり、その後の幸福な人生が暗示されて物語の幕が閉じる。

 初読は小学生の頃だったか、「真相にびっくりした」という感想を抱いたくらいの記憶しかなかったけれど、大学入学以降にふと読み返したところ、これはすごいなぁと思わされた。

 クールな視点で見れば、作家を目指すジュディが書き送る手紙は、それ自体が「あしながおじさん」が行った投資の経過報告であると言え、同氏に楽しんでもらい、「この子に学費を出してあげてよかったな」と思ってもらえるものでなければ失格である。

まあ、この書き方はいささかシビアに過ぎるにしても、「ジュディ=文章に対してお金を払ってもらう作家」「あしながおじさん=お金を払って文章を読む読者」という構造を強く意識して作品を読み返すと、読者がジュディという「キャラクター」に対して感じる魅力・「ストーリー」の面白さといったもの自体が、想定される読者である「あしながおじさん」を楽しませようとするジュディの作家的天稟や努力を示すものであるともいえ、書簡体小説という形式自体の妙味が感じられる。

 この点に関連して、「あしながおじさん」が身分を隠しながらジュディと交際していたという設定も実に見事。同氏は、支援者を楽しませるべき手紙の素材としてはおよそ適切ではないという判断から、手紙(=『あしながおじさん』という作品)に書かれることがなかったジュディのプライベートな秘密や人生の艱難辛苦を実際に目にしているはずであり、人生に苦闘しながらも「あしながおじさん」に対しては努めて楽しい手紙を書き送っていた様はめちゃくちゃいじらしくもたくましくて魅力的だったと思う。いやまあ正直おっそろしくキモいけど。

 

 

  1. ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳『モモ』

 有名児童文学から一冊。はじめて読んだのはやはり小学生の頃か。

 当時の感想は「なんか怖い」「カメが可愛い」くらいのものだったが、真木悠介『時間の比較社会学』などを読んだ後でふと思い出して読み返してみたところ、色々考えることが生まれた。コロシアムに暮らす(=共時的な時間の中で生きる)モモが、時間どろぼうが幅をきかせる(=近代的な時間の枠組みの中に囚われた)都市を解放する物語として読むのが、『モモ』のオーソドックスな読み方だったんだね。

 評論家にはあまり好まれないらしいという評にも同時に触れたけど、それもわかるような気がした。近代的な時間の桎梏を破壊したところで共時的な時間の中に回帰することができるかは疑問だし、仮にそれが実現したところでハッピーエンドなのかもわからないわけなので、『モモ』はちょっと虚しくてちょっと切ないエンデの夢想にすぎないってことになってしまうものね。

 ここはやっぱりカメが可愛いお話ってことでひとつ。

 

 

  1. エーリヒ・ケストナー著、若松宣子訳『飛ぶ教室』

 有名児童文学から一冊。これもはじめて読んだのは小学生の頃か。

 傑作。

 

 

  1. 松原秀行『パスワード春夏秋冬(上)』

 小学校中〜高学年時代の愛読書だった「パスワード」シリーズから一冊。

 『春夏秋冬』は、普段は名探偵役を拝命することが少ないダイ、みずき、飛鳥、まどかの4人をフォーカスした中編集。上巻はダイとみずきが主人公。

 正直、「パスワード」シリーズから一冊挙げろと言われた時にこれを挙げる人はめちゃくちゃ少数派な気がするんだけど、当時の僕が好きだったんだから仕方がない。松原秀行氏のサイン会にも行ったことがあるんだけど、その際もこの本にサインを頂きました。

 

 

  1. はやみねかおる『都会のトム&ソーヤ2 乱!RUN!ラン!』

 小学校高学年〜中学校前半時代の愛読書だったはやみねかおる氏の著書から一冊。

 「マチトム」シリーズの2作目。小中学時代は、はやみね氏のシリーズの中でも一番同シリーズが好きだったと思う。

 シリーズ中からこの一冊を選んだ理由としては、「閉店後のデパート」の浪漫を僕に最初に教えてくれた作品だったような気がするため。

 

 

  1. はやみねかおる『少年名探偵 虹北恭助の新冒険』

 小学校高学年〜中学校前半時代の愛読書だったはやみねかおる氏の著書からもう一冊。

 「虹北恭助」シリーズの第2作目。作品の舞台となる商店街にいつもどこか静謐で切ない空気が流れているのがとても好きだったシリーズで、マイファースト講談社ノベルス

 『冒険』とだいぶ悩んだけれど、お気に入りの番外編である「おれたちビッグなエンターテイメント」が入っているためこちらに。

 

 

  1. はやみねかおる『機巧館のかぞえ唄』

 小学校高学年〜中学校前半時代の愛読書だったはやみねかおる氏の著書からさらにもう一冊。

 「夢水清志郎」ファーストシリーズのうちの一冊。『亡霊は夜歩く』『魔女の隠れ里』等のシリーズ序盤作品に漂っていた薄ら昏い雰囲気の(赤い夢の世界の)ひとつのピークを成す一作。シリーズ一番の問題作。

 当時はわけわかんなくて怖かった(素直)。村田四郎氏の挿絵の趣の深さも異常だった。

 

 

  1. 宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』

 宮部みゆき氏の短編集。講談社文庫版を上に掲げているが、小学校四年生の頃に初めて読んだのは青い鳥文庫版だった。青い鳥文庫への収録に際し、千野えなが先生が寄せた挿絵が、余白が雄弁で魅力的で大好きだった。今は在庫切れらしい。とても悲しい。

 出典である講談社文庫版はその後何年かしてから読み、青い鳥文庫化にあたってカットされていたいくつかのエピソードに触れ、カットの理由も薄々察してしみじみとした。

 現状3冊あるマイベストミステリのうちの一冊。

 

 

  1. 佐藤多佳子『黄色い目の魚』

 僕の小学校時期の児童文学を代表する作家の一人だった佐藤多佳子氏の著書から一冊。

 『サマータイム』をはじめとする他作品とだいぶ迷ったもののこちらに。

 初読は小学生の時。今まで読んだ中で一番好きな小説を出せと強いられたらこれを差し出すような気がする。

 

 

  1. 森絵都『永遠の出口』

 僕の小学校時期の児童文学を代表する作家の一人だった森絵都氏の著書から一冊。

 『アーモンド入りチョコレートのワルツ』(「子供は眠る」が流石につよすぎる短編集)をはじめとする他作品とだいぶ迷ったもののこちらに。

 初読は小学生の時。未だに読み返すたびに好きな章が変わる。永遠の出口はどこにあるんだろうね……。

 

 

  1. あさのあつこ『ラスト・イニング』

 僕の小学校時期の児童文学を代表する一人だったあさのあつこ氏の著書から一冊。

 「バッテリー」シリーズの外伝。シリーズ随一の人気キャラ・瑞垣をフォーカスした作品。当時はそんなに瑞垣好きなわけじゃなかったのに、一冊選ぼうという段になった時に一番に思いついたのがこれだったので、パワーを感じた。

 それにしても、バッテリーシリーズの巧・豪、門脇・瑞垣らにしても、「THE MANZAI」シリーズの歩と貴史らにしても、あさのあつこ作品はまあなんというか濃厚でしたね…。当時はあんまりわかんなかったけど。

 

 

  1. 阿部夏丸『峰雲へ』

 僕の小学校時期の児童文学を代表する一人だった阿部夏丸氏の著書から一冊。

 阿部夏丸作品から一冊選べと言われたら『泣けない魚たち』『見えない敵』などを挙げる場合が多いような気がするけれど、当時の僕はこれが一番好きだったので仕方がない。「ゆるやかな川の上より」などとも悩んだ。

 

 

  1. 魚住直子『非・バランス』

 鬼才・魚住直子氏のデビュー作。

 小学生時代、ちょっと背伸びしたくて手に取った講談社文庫の本。結果、見事に虐殺された。作品自体のトラウマレベルとしては『未・フレンズ』(あるいは「象のダンス」)の方が上だったように思うものの、最初に受けた衝撃の大きさを重く見てこちらに。

 

 

  1. 重松清『日曜日の夕刊』

 重松清氏の短編集。小学校時代に読んだけれど、今見ても冴えたタイトル。

 王道だが「卒業ホームラン」がつよかった。

 僕の小学校時代はやたらと重松清が流行っていた(中学入試によく出るというのもあって)。当時通っていた塾の先生が「重松清は子供のうちに読んでもいいものと大人になってから読んだ方がいいものがある」と言っていたけれど、結局後者には触れずに今日まで至っていることに多少のモヤモヤがある。ちなみにそう言っていたのは国語ではなく算数の先生。碌でもなくて面白い人だったね。

 

 

  1. 角田光代『キッドナップ・ツアー』

 角田光代氏から一冊。

 別居中の父親に「ユウカイ」された小学5年生の女の子ハルのひと夏を描く物語。

 タイトルがいいよね。

 初読は小学生の時。折に触れて読み返してみるものの未だにわかっていない作品。

 

 

  1. 宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」

 宮沢賢治から一編。

 動物たちが可愛くて大好きだったためにセレクト。

 

 

  1. 石川啄木『一握の砂・悲しき玩具』

 石川啄木の歌集。小学生の頃に買って、折に触れてパラパラと眺めている。

 なぜか我が家はみんな啄木が好き。

 

 

  1. J. K. ローリング著、松岡佑子訳『ハリー・ポッターと秘密の部屋』

 「ハリー・ポッター」シリーズの第2作。

 『謎のプリンス』と悩むもこちらに。映画の方だが、「ハリポタ」に初めて触れたのがこの『秘密の部屋』であること、初めて古本屋で買った本であること、何より「秘密の部屋」の謎に脅かされる陰鬱なホグワーツの雰囲気とハリーのヒロイックな活躍ぶりがめちゃくちゃ魅力的で大好きだったといった理由から選択。

 

 

  1. 宗田理『ぼくらの七日間戦争』

 「ぼくら」シリーズの第一作。原点にして頂点。

 ポプラ社版の発売開始が僕の小学生時代に直撃。当時未発売だった高校生編以降も、角川文庫、徳間文庫と読み継いでいき、『グランド・フィナーレ』まで完走。

 全共闘世代(=団塊の世代 or 第一次ベビーブーム世代)の子世代にあたる中学一年生の一団を主人公としたシリーズであり、『七日間戦争』では、子どもたちがかつての親世代を模倣するように、荒川河川敷の廃工場を「解放区」と名付けて立て籠り、大人たちにいたずらの限りを尽くす。主人公たちの行動を通じて全共闘世代を批評する作品とも読める。

 なお、『七日間戦争』の発売は1985年だが、主人公たちの親世代は1947〜49年頃の生まれであり、彼らが1971〜74年頃の第二次ベビーブームにおいて主人公たちを産んで親になったものと考えると、「1985年」という発売時期はまさに主人公たちが中学一年生になろうという時期にあたるといえ、時宜をとらえた作品だったんだなぁと後になって思った(当時の人からすれば自明だろうけど)。

 また、作者である宗田理氏は1928年の生まれであるため、主人公たちの親世代よりも20歳ばかり年上である。同氏は、『七日間戦争』が全共闘世代に無視されたと嘆いている節があるが、程度の差こそあれ当事者たちには「黒歴史」と自認されることが多いのが全共闘である。それを、15年もの時が経った後に、「あの頃のお前たちはエネルギーに溢れててかっこよかったのになァ」などと上の世代にほじくり返される感覚であったと考えれば、それはもう黙殺もやむなしなのではないかなという感じはするね。

 ちなみに、角川時代の「ぼくら」シリーズの最終作にあたる『ラストサマー』は、思い返すと明らかにウッドストック (1969年) なので、シリーズの出発点が日大全共闘にあったことを考えると、実はひとつの原点回帰だったんだなぁと後になって思った。

 さらにちなみに、僕は小学生時代は純子派だったけど、改めて読み返した際には、英治がひとみに惚れてしまうのはそれはもう仕方ないなと思い直した。ずるいだろあの子。

 

 

  1. 川上健一『翼はいつまでも』

 ラジオからビートルズが流れる時代の中学生を描いた傑作。初読は中学生の頃だったか。登場人物たちと同じくらいの年齢帯だったと思うけど、何か異国の物語のような隔世の感を覚えながら読んでいたのを覚えている。

 内容的にも文章的にも、アラを探せばキリがないだろうけど、溢れるような振り絞るようなエネルギーに泣かされてしまうので僕の負け。

 

 

  1. 綿矢りさ『蹴りたい背中』

 最年少芥川賞受賞(19歳)で世間の話題をさらった一冊。

 これ初めて読んだのは小学生の時だったような気がするけどどうだったっけ、流石に中学生だったかな……。

 

 

  1. 西尾維新『クビキリサイクル』

 西尾維新氏のデビュー作。「戯言」シリーズの第一作。

 初めて読んだのは中学一年生の時だったか、講談社文庫での販売開始時期に書店に行って目についたことから購入。自己認識としてはマイファーストライトノベル

 この本を読んでいたことから声をかけられて仲良くなった中学の同期とは、今も楽しくご飯に行く仲です。サンキュー西尾維新

 

 

  1. 本多孝好『WILL』

 本多孝好氏のミステリ短編集。初読時の僕は中学生。

 末期患者の生と死をテーマに据えた短編集『MOMENT』の続編である本作においては、『MOMENT』の主人公・神田の幼馴染であり、葬儀屋を営む女性である森田が主人公を担う。

 「末期患者」「葬儀屋」と、明らかにしんどい要素・泣けそうな要素が並んでおり、身構えられた方もおられるかもしれませんが、実際当時の僕は滂沱の涙を流しました。『MOMENT』ではなくこちらの『WILL』を選んだ理由は、ラストシーンがめちゃくちゃ美しかったから。今思い出してもきれいすぎて鳥肌が立つ。

 

 

  1. 海堂尊『ジェネラル・ルージュの凱旋』

 幾度も映画化・ドラマ化された海堂尊氏の医療ミステリー『チーム・バチスタの栄光』シリーズの第3作。本作自体も映像化(映画&ドラマ)されている。

 舞台は病院、救急救命センター。収賄の容疑がかけられたセンター長・速水晃一が会議室と救命現場の両面で修羅場を颯爽と駆け抜ける物語。

 初めて読んだのは小学校から中学校に上がるくらいの時期だったか。「作品間リンク」という趣向が当時大好きだったこともあり、それを用いている海堂氏の本は全部読んでいた。作品群の中から『ジェネラル・ルージュの凱旋』を選んだのは、彼独特の大時代がかった台詞回しが一番冴えた作品であろうと思われるから。

 

 

  1. 辻村深月『スロウハイツの神様』

 辻村深月の長編。

 辻村深月の作品に関しては、肌に合わないと感じることが正直多いものの、この作品はとても好き。

 タイトルもとても好き。

 別に面白くもなんともない思い出話だけど、中三の夏だったか高一の夏だったか、奥多摩に初めて行った時の電車中で読んでいたのがこの本だった。

 

 

  1. 金城一紀『映画篇』

 金城一紀氏による、名作映画をモチーフとした連作短編集。

 最後に用意された「愛の泉」の幸福がスーッと効いて忘れがたい。『ローマの休日』はやっぱり最高の映画。

 

 

  1. 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』

 伊坂幸太郎氏から一冊。伊坂的娯楽小説突抜頂点。

 初読は中学生の頃だったか。当時伊坂幸太郎が大好きだった僕が、万難を排し満を持して絶大な期待を胸に読み進めるも軽く突き抜けられた。

 マイベストミステリのうちの一冊。

 

 

  1. アイザック・アシモフ著、池央耿訳『黒後家蜘蛛の会(2)』

 科学者であり文筆家、SF作家でありミステリ作家と、溢れる才能がとどまるところを知らない巨匠アシモフの短編ミステリシリーズ。

 ニューヨークのミラノ・レストランで月に一回開催される「ブラック・ウィドワーズ」(黒後家蜘蛛の会)の例会が舞台。食事がひと段落すると、会のメンバーやゲストが自身が抱える謎を提示する運びとなり、参加者たちが知恵を絞ってその問題に取り組む。推理が行き詰まったところで、給仕のヘンリーが華麗な謎解きをあくまで控えめに披露する――という安楽椅子探偵もの。

 サロン的な空気が楽しい。自作解題も楽しい。

 いつまでも読んでいたいので、記憶を失くしてもう一度読み返せないかなといつも思っている。そううまくはいかないので、月日の経過によって本の内容を実際に忘れてしまってから読み返すようにしてみた。大体5年くらいの間隔を目安にしており、去年読み返したのが累計で3回目だったような気がする。しかし、それは作品の内容ではなく作品自体を忘れてしまっているだけではないかというごもっともな指摘が僕の中で入ったため、今では普段からパラパラと読んでいる。

 シリーズの既刊は5巻。第2巻を選んだのは、あの「小惑星の力学」の論文内容を解明しようとする「終局的犯罪」が載っている一冊であることから。

 

 

  1. 東野圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』

 東野圭吾氏から一冊。

 全然意味がわからんけどとてもすごい(小並感)になったためにセレクト。

 最近映画化もしたらしいですね……これって映画化できる作品なの?

 

 

  1. 中井英夫『虚無への供物』

 「三大奇書」の一つに数えられる作品。高校生の時分に初読。

 あまりにもわからずやや病んだ。当時はそれどころではなかったが、1950年代の日本の風俗小説としてもとても魅力的。

 

 

  1. 多島斗志之『黒百合』

 才人・多島斗志之の作品から一冊。

 発売前後の『このミス』では10位前後にランクインしており、投票者の中には「究極のミステリ」と評する人もいた。そうだったと僕も思う。

 マイベストミステリの一冊。そう言えることが幸福。

 

 

  1. 北方謙三『三国志』

 北方謙三氏から一作品。

 原典が完成されているはずの「三国志」を舞台に、北方謙三の筆が躍る。

 先行する「北方太平記」の発展としての「三国志」という位置付けがまず見事。「蜀=皇国史観」「魏=反皇国史観」「呉=一国共産主義」「太平道五斗米道=宗教」といった形で、イデオロギーの対立を「三国志」の素材に落とし込んでおり、秀逸。しかし、イデオロギーが勝ったり負けたりする物語にはなっておらず、あくまで人の(滅びの)物語として成立している。すごい。

 呂布劉備張飛馬超らのキャラクター造形も見事。個人的にはやはり張衞の名前も挙げたい。

 周瑜が病没する際の筆致の透明さには震える。

 今や、北方謙三の中国歴史ものといえば、一も二もなく『大水滸』シリーズだろうと思われるものの、厳しい創作上の制約の中で見事に北方謙三を舞ってみせた『三国志』もめっちゃすごいし良いんだよーということで、ひとつ。

 『武帝記』もめちゃくちゃいいよね…。

 

 

  1. スティーヴン・キング著、山田順子訳『スタンド・バイ・ミー』

 現代ホラーの巨匠キング氏による一冊。表題作と同タイトルの映画はあまりに有名。死体を見に行こうとする4人の少年たちのひと夏の冒険を、作家になったゴーディが回想するという形式の小説である。なお、表題作の原題は ”The Body” だが、邦訳の際、映画に合わせたタイトルが採用されたという事情がある。

 僕にとっては、表紙が、特に藤田新作氏の絵があまりに魅力的で思わず手に取った一冊。

 ただ、初読時の感想は、「つまらない……」。特に、ゴーディの創作として語られたパイ食い競争のお話が全く酷かった。「子どもが考えたお話」をリアリスティックに表現しようとしたものだと考えたならば、ある意味では良い出来と言えるのかもしれないけれど、僕は普通に面白いものを読ませて欲しかった。作中ではバカ受けなのも不可解だった。

 もっとも、歳を経るにつれ、「つまらない」という感想自体はまあ変わらないものの、つまらなさに対する考え方は少し変わってきた。

 作品の最終盤で明かされるように、4人の少年の ”一団(=body)” のうち、物語の語り手であるゴーディを除く3人は既に全員が死んで( ”死体(=body)” になって)いる。件の「つまらなさ」から、何か強烈な切なさが薫ってくる。ゴーディが少年時代の忘れられない思い出を共有できる友達は、もう一人もこの世にいない。ものを書く能力があるゴーディは、その思い出を書き残し、読者に伝えることができるが、友達みんなが笑ってくれたパイ食い競争のお話は、ゴーディの友達ではない読者の目線から見ると別に面白くもなんともない。「スタンド・バイ・ミー」ってめちゃくちゃ秀逸なタイトルじゃないですかね。最後のパラグラフには思わず涙が出る。

 

左手を見ると、今はもう川幅が狭くなっているが、少しは水がきれいになったキャッスル・リバーが、キャッスル・ロックとハーロウを結ぶ橋の下を流れているのが見えた。上流のトレッスルはなくなったが、川はまだ流れている。そしてわたしもまた、そうだ。

 

 

  1. 米澤穂信『遠回りする雛』

 「古典部」シリーズの第4作であり、短編集。

 これは本当に素晴らしい作品。

 

 

  1. 恩田陸『夜のピクニック』

 恩田陸の傑作長編。

 めちゃくちゃ好きかと言われれば素直に頷けはしないんだけど、「100冊選べ」と言われて外すことはできないかな、という作品。ちょっと感情が複雑。ノイズはもう聞こえない。

 

 

  1. 川上弘美『真鶴』

 『センセイの鞄』などで知られる川上弘美氏の作品。

 川上弘美が好きな妹に「こういう言い方しづらいけど、男性にはやっぱりこれ書けないでしょ……私も書けないけど」と言われた。じゃあ誰も書けねえじゃねえかよ。それはそう。

 

 

  1. 夏目漱石『こころ』

 夏目漱石の有名長編。高校の授業中に取り上げられたこれのせいで精神に異常をきたした。浪人することになった原因の一つとされている。

 

 

  1. 高橋源一郎『日本文学盛衰史』

 高橋源一郎氏の近代日本文学論(広義の)。

 高校の先生が授業中に同書中の “Who is K” を紹介しており、うっかり読んでうっかり粉砕されてしまった。

 

 

  1. 小宮豊隆『夏目漱石』森田草平『夏目漱石』

 漱石の高弟として知られる2人がそれぞれものした漱石評伝。

 大学入学後、漱石作品をいくら読んでみてもさっぱりわからず、苦し紛れに手を伸ばした評伝。夏目漱石は文学なんだということには気がつくものの、これら2作もまたわからず、事態は悪化。頭を抱える。

 

 

  1. 蓮實重彦『夏目漱石論』

 蓮實重彦氏による漱石論。「横たわる漱石」は非常に有名。

 蓮實重彦といえば、文体や内容のハイコンテクストさでめちゃくちゃ初見殺しな書き手だという印象だったものの、これは比較的読みやすくかつ面白くて助かった。

 

 

  1. 石原千秋・小森陽一『なぜ漱石は終わらないのか』

 ここ数十年の漱石研究をリードしてきた石原・小森の両氏による対談形式での漱石論。

 これが彼らの漱石論として最も良いものであるとは言えないだろうと思うものの、両雄がクレジットされている点と読みやすさからセレクト。彼らの仕事に触れたことにより、かなり漱石を終わらせることにかなり成功して現在に至る。

 

 

  1. 大泉実成編『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』

 「新世紀エヴァンゲリオン」を語る上での基礎文献とされているという文献。――だけど実は僕がこれを読んだの2023年になってからなんだよね、全くお恥ずかしい限り。

 この2冊の刊行は1997年の3月で、「シト新生」のまさに公開期。当然ながら、「旧劇場版」(「Air/まごころを、君に」)の公開には先立っている。「TVシリーズ終了後、旧劇場版公開前」という非常に特定の時期に取材され、出版された本。

 庵野秀明へのロングインタビューや庵野氏を除いた関係者の座談会(「欠席裁判」)などがメインのコンテンツとなっており、とにかく色々面白い。どこかで聞いたことがあるような話が多く、必ずしも新鮮味がないところも面白い。とりあえず読んでおくとこれらの人生で楽しいことが増えるかも。

 結構入手が面倒くさい本だったらしいけれど、今では電子書籍で簡単に手に入ってツルツルと読める。良い時代になったものです。

 

 

  1. 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』

 「ゼロ年代」「セカイ系」――そんなものを代表するタイトル。

 初読時は高校三年生の春休みだったか、あまり大した作品とは思わなかったものの、最近になって読み返したところ、あまりのウェルメイドさにたまげてしまった。すごいね。

 

 

  1. 東浩紀『動物化するポストモダン』

 東浩紀氏の主著であり、サブカル論・オタク論系の基礎文献。

 同分野のジャンルの本ってたくさん出ているけれど、それらをパラパラと眺めた上で本書に立ち返って思うこととしては、本書は著者の学問的なバックグラウンドが分厚いことなどがあって、読んでいて素直に興味深いなぁと。

 ポスト東と呼べる人物って、結局出てきているんでしょうかね。出てきていないなら早いところ出てきてくれた方がいいような気がするんだけれども。

 

 

  1. 田崎晴明『熱力学 現代的な視点から』

 学習院大学教授・田崎晴明氏の熱力学の教科書。

 大学一年生からでも読めるように書かれている。恐ろしく面白い。

 物理が好きな高校生は大学に入学して同書を読んで感動し、東大駒場キャンパス月曜5限開講の「現代物理学」(現在は閉講)にこぞって潜りに行く、という流れがあった。また、その余勢を駆って『統計力学』にも手を出し、『I』はどうにか耐えるものの『II』では挫折するというまでテンプレだった。(多分)

 

 

  1. 村上春樹『ノルウェイの森』

 村上春樹氏の代表作。初読時は高校生の時だったか。

 ここ何年か、村上春樹しか読みたくない時期が大体年に2回ほど来るんだけど、歳を経るごとに『ノルウェイの森』が代表作とされる理由がわかってくるような気がする。不思議ですね。

 

 

  1. 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 村上春樹氏の代表作。

 後世に陰に陽に未曾有の影響を与えたと言えるだろう作品で、本書を大学時代に初読した僕は、これが(1995年などではなく)1985年の発売であることを知り衝撃に打ち震えました。1985年は絶対嘘だろ……。

 

 

  1. アーシュラ・K・ル=グウィン著、清水真砂子訳『こわれた腕環』

 「ゲド戦記」シリーズの第2作。こんな途轍もない小説が一人の人間の手によって描かれたということが信じられない神域の傑作。前作『影との戦い』も尋常ならざる傑作だったけれど、『こわれた腕環』はそれとも格が違い、震えが止まらない。

 著者ル=グウィンの母は人類学者シオドーラ・クローバー(『イシ――北米最後のインディアン』の著者として知られる)であり、その事実を知った時には『こわれた腕環』がこれほどの傑作たりうる所以の4パーセントくらいは納得できたような感じがしました。

 

 

  1. 綾辻行人『暗黒館の殺人』

 新本格ムーブメントの旗手・綾辻行人畢生の大作。総原稿数2500枚らしい。

 「本格ミステリ」としての魅力がこの長大な小説の全編に横溢しており、著者が本書に懸けた尋常ならざる思い入れと集中力のほどが窺える。「よくぞこれほどのものを…」と感嘆するより他にない一方、狭義の「推理小説」「探偵小説」としての出来が良いとは必ずしも言えないところは面白い。けれど、それが作品の瑕疵になっているとはあまり思えないので面白い。

 また、集中力は読者の側にも要求されるので大変。数日間の時間を確保しての一気読みが推奨でしょうか。僕は那須湯本温泉への旅行中に一気読みしました。

 

 

  1. 笠井潔『バイバイ、エンジェル』

 推理小説家としての笠井潔の第一長編。

 同書を知ったのは『機巧館のかぞえ唄』において。同書収録の短編のタイトルが「さよなら天使」だった。

 そのことを思い出して本書を購入したのが、たしか中学生だった頃のこと。さっぱりわからず、序章で挫折。その後10年弱の時を経た修士一年目だったかの時分に何となく再び手に取った、かつてはさっぱりわからなかったはずの序章であまりの面白さに震え上がることになった。

 

 

  1. 笠井潔・押井守『創造元年1968』

 アニメ映画監督押井守笠井潔の対談集。

 

 

  1. 山本義隆『私の1960年代』

 駿台予備学校に物理学の講師として勤めつつ、科学史の分野においていくつもの傑出した仕事を残した山本義隆氏のエッセイ。彼は東大闘争においては指導者格の存在でした。

 

 

  1. 見田宗介『まなざしの地獄』

 社会学をやっている友達に「社会学の面白い本教えて」と聞いてみたところ、「とりあえずこれを読め」と勧められて読んだ本。永山則夫事件をモチーフに見田宗介の筆が冴えるマスターピース

 

僕「まなざしの地獄を読んだよ」

友「どうだった?」

僕「素晴らしかった。文学だね? これは」

友「確かにあれは文学だね笑」

 

社会学科が往々にして文学部内にある理由を完全に理解した瞬間でした。

 

 

  1. 真木悠介『時間の比較社会学』

 『まなざしの地獄』が素晴らしかったため、見田宗介の他の本もぜひ読んでみようと思い立って手に取った一冊。(なお、真木悠介見田宗介の別名)

 レヴィ・ストロースなどのビッグネームを素材に、人間の時間意識とその変化・多様性が論じ上げられる。めちゃくちゃ面白い。

 

 

  1. 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』

 東京大学副総長を務めたことでも有名な吉見俊哉氏の主著。

 サブタイトルは「東京・盛り場の社会史」。東京都市論の基礎文献と言っていいだろう文献。最初から最後までずっと面白い。

 なんでも、これは吉見氏の修士論文がベースの本らしい。これが修士論文……??博士論文ではなく……??

 

 

  1. 向田邦子『思い出トランプ』

 脚本家であり、作家としては『父の詫び状』がよく知られている向田邦子の傑作短編集。同書収録作品で直木賞。なぜか家に2冊ある。

 

 

  1. 宮部みゆき『ソロモンの偽証』

 宮部みゆき氏からもう一冊。

 『模倣犯』と悩むものの、そして正直『模倣犯』の方がとんでもないところまで行っているとは思うものの、『模倣犯』は読者に対して強いる直接的な心理的負担があまりにも大きく、エンターテインメントの枠組みを必ずしも良くはない意味で逸脱していると思われる点を重く見て、エンタメの枠内で傑作に仕上げたと言える『ソロモンの偽証』を挙げることにしました。

 いやだけどどっちもマジですごい。

 

 

  1. 三島由紀夫『金閣寺』

 三島由紀夫の代表作。金閣寺への放火という1950年の史実に取材して構想された作品。

 読者の大半は、読み始める段階では「別に金閣寺焼かなくてもいいじゃん」と思っているのだけれど、主人公が遂に「金閣寺を焼かねばならぬ」と決意する段においては、「これは焼くしかない」と主人公と一緒に拳を固めている。

 三島由紀夫の特徴とされる類稀なる論理性・日本語を操る才能を堪能できる、納得の代表作。

 吃音の設定は本当に見事ですね。

 また、小林秀雄に「なぜ主人公を殺さなかったのか」と聞かれた際に語ったという「人間がこれから生きようとするとき牢屋しかない、というのが、ちょっと狙いだったんです」というコメントにも痺れる。

 

 

  1. 太宰治『人間失格』

 太宰治の代表作。

 漫画化された本作をパラパラと読んで「何これ……」となったのが中学生の時だったか。以来ずっと怯えがあり、ちゃんと読んだのは実際のところ結構最近。

 太宰作品としては「走れメロス」にも負けないほどの知名度を誇ると思われるめちゃくちゃな有名作である本作だけれど、作品自体の出来は正直良いとは言えないんじゃないかって思えるところは面白いよね。そうでもない?

 ちなみに僕は、太宰作品では「津軽」なんかが好きです。

 

 

  1. 井上光貞『神話から歴史へ』

 中央公論社(当時)が1960年代に放ち、ベストセラーとなった「日本の歴史」シリーズ(全26巻)の第1巻。

 同シリーズの執筆者を順番に挙げていくと、井上光貞、直木孝次郎、青木和夫、北山茂夫、土田直鎮、竹内理三、石井進、黒田俊雄、佐藤進一……と、国史のビッグネームの夢の競演。

 そのシリーズの1巻を飾る本書の「はじめに」においては、「日本人が、どのようにして未開状態から文明の戸口まで歩んできたか、これが内容的には、本書の課題である。この歴史の歩みをたどるには、二つの相反する視角が必要であろう。その一つは、古事記日本書紀の神話・伝承などにわずらわされないで、たしかな記録と考古学の成果をもちいて、歴史の歩みと、そのときどきの人びとの生活を、できるだけ再構成してみることである。他の一つは、それを土台として、今日ともすれば軽視されがちな神話・伝承の内容とその意味を、できるだけ正しく探ってみることである」とある。

 第二次大戦の敗戦を契機に、国史の学問的な制限が取り払われ、誕生することとなった学問的精華の結晶と言えると思う。多分。

 なお、本書の著者である井上光貞は、井上馨の曾孫でありかつ桂太郎の孫。いささか情緒的なものの見方ではあるものの、明治の元勲ふたりの孫が『神話から歴史へ』と題されたこのような書籍を広く世に問うこととなったという事実には、何かしみじみしたものを感じずにはいられない。

 ただ、これは半世紀も前の本なので、歴史書としての正しさについては多分あんまり信用しない方が良いのだろうと思います。一種の文学として読むくらいが良い気がする。

 

 

  1. 本郷和人『歴史学者という病』

 著名な歴史学者である本郷和人氏のエッセイ。「東大のセンセイ」らしからぬ奔放でソフトな文筆活動等で社会に広く知られている本郷氏なので、つい忘れそうになることもあるが、彼は実際しっかり研究した日本中世史家なんだなぁという印象が新たになる歴史哲学の本。

 主として石井進に師事し、佐藤進一・網野善彦五味文彦らのエピソードも豊富というだけでも相当お腹いっぱい。そんな人があんなにライトな活動してくれてるってすごいよなぁ。

 

 

  1. 加藤隆『「新約聖書」の誕生』

 聖書学者加藤隆氏による、キリスト教の揺籃期・新訳聖書の成立期を学問的に追った入門書。

 お、おもしれ〜〜となった。

 同氏には『旧約聖書の誕生』といった著書もあり、こちらもおもしれ〜〜となった。『旧約』の方が満足感があったような記憶もある。

 

 

  1. 遠藤周作『死海のほとり』

 キリスト教カトリック)作家としての側面を持つことで有名な遠藤周作の代表作から一冊。

 信仰に躓き、聖地エルサレムを彷徨する主人公の物語とイエスの物語が交互に展開される長編。姉妹編として『イエスの生涯』もあるが、僕は『死海のほとり』の方が好き。

 

 

  1. G. フレーザー原著、M. ダグラス監修、S. マコーマック編集、吉岡晶子訳『図説 金枝篇』

 フレーザーの浩瀚な著作『金枝篇』の縮約本。似たような本は他にもあるけど、どれが一番良いんだろう。僕はこれしか読んでないからわからないけど。

 ローマにほど近いイタリアの村ネミにおいては、神殿の祭司――「森の王」――の職の継承は、逃亡奴隷が神殿の森の聖なる樹(ヤドリギ)の枝を手折った上で、現在の「森の王」を殺すことによってのみ行われたという。この古代文化の解明を目指すのが本書。タイトルにある「金枝」とは、手折られるヤドリギの枝を指す。

 本書に対しては、古代文化を「未開」視することに躊躇がないフレーザーの姿勢や、「安楽椅子探偵」的な人類学の研究姿勢などに対する根本的な批判も少なからず加えられてきたというが、そういった時代的な限界はあるにしても、めっちゃスリリングで面白いよこれ……という気持ち。人文系の学徒はみんな心のどこかでこういう本を書きたがってるんじゃないかな、そうでもないのかしら。

 

 

  1. 寺田寅彦『柿の種』

 戦前日本を代表する科学者であり、夏目漱石の高弟としても知られる寺田寅彦の文業から一冊。

 軽くやわらかい文章に凝縮された寺田寅彦の魅力を堪能できる佳品。

 

 

  1. 沢木耕太郎『深夜特急』

 雨が降っていたために会社を辞め、そのまま日本を飛び出してユーラシア大陸横断の旅に出た沢木耕太郎の紀行文学。バックパッカーブームの間ではバイブルだとかなんだとか。

 タイトルが本当に良い。

 正直、感受性の豊かさをどこか誇らしげにブンブン振り回したような筆致が鼻につくことも少なくないのだが、続きが読みたいという気持ちは止まらない。やはり旅が必要。

 

 

  1. ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳『車輪の下』

 ヘッセの代表作。初読時は病んだ。こんなに救いのない作品はヘッセの中ではかなり異質なんだという認識を持つようになったのは何年も後のことでした。

 

 

  1. ヘルマン・ヘッセ著、井出賁夫訳『ガラス玉遊戯』

 ヘッセの代表作、最後の長編。

 ヘッセのノーベル賞受賞の直接的なきっかけとなった作品とされており、実際ヘッセ長編有終の美と言うべき出来なんだけど、日本ではちょっと読みづらかった。というか、手に入りづらかった。今ではKindle unlimitedに他の訳が入っているので入手の困難は減っていると言えるだろうけど、この長さの作品をkindleで読むとなると、それもまたなかなかキツくないかなぁという気持ち。

 

 

  1. トーマス・マン著、望月市恵『ブッデンブローク家の人びと』

 トーマス・マンの第一長編。日本ではマンの長編といえば『魔の山』の方が断然有名なような気がするけど、実はマンのノーベル文学賞受賞理由としてこの「ブッデンブロークス」が挙げられているなど、強烈に高い評価を受けているのが本作。

 19世紀を通じて没落してゆく北ドイツの都市リューベックの商家一族を描いた作品で、作者マン自身の一族が作品のモデルになっている。

 非常に構成が練られている上に詩情にも溢れる大河小説であり、すごい。「没落する一族は最後に芸術家を輩出する」というモチーフの現実的な初出は、おそらくこの作品。

 

 

  1. トオマス・マン著、実吉捷郎訳『トオマス・マン短編集』

 トーマス・マンの傑作短編集。

 収録作のうち、好きなものを一作挙げるとすれば「トリスタン」。ラストシーンがあまりにも恐ろしくかつ素晴らしくて震え上がった。

 訳者の実吉氏のマン訳業としては、本書の他にも『ヴェニスに死す』『トニオ・クレエゲル』などがあり、いずれも市中で簡単に手に入る。ただ、いかんせん一世紀近く前の翻訳書であるため、読みづらさはややある。けれど、それを押してなおあまりあるめちゃくちゃ素晴らしい翻訳者・文学者なのではないかと思う。知らんけど。

 

 

  1. 北杜夫『楡家の人びと』

 北杜夫の長編。

 タイトルから察せられるように、「ブッデンブロークス」を強く意識して書かれた大河小説。北杜夫本人の実家(医者の家系)の繁栄と衰退を描く。非常に面白い。昭和前期の風俗小説としても面白い。

 北杜夫の父親が斎藤茂吉だということは、この本をきっかけに知った。びっくりしました。北杜夫という筆名も、斎藤茂吉との血縁を隠すべくつけたもので、トーマス・マンの代表作「トニオ・クレエゲル」を意識したところがあるとのこと。

 

 

  1. アイザック・アシモフ著、小尾芙佐訳『われはロボット 完全版』

 SF作家としてのアイザック・アシモフから一冊。

 「ロボット三原則」であまりに有名。

 誰がどのように読んでも面白い。「これはアシモフだな……」「SFって高度な知的遊戯なんだな……」としみじみ思わされた傑作短編集。

 

 

  1. ネビル・シュート著、井上勇訳『渚にて』

 副題は「人類最後の日」。北半球で勃発した核戦争によって、戦地となった北半球は全域が放射能に汚染、残された人類は南半球のわずかな地域に拠って生き永らえていた。南半球で人間が生きていられるのは、大気循環の構造上の理由により、南半球まで放射能がめぐるには時間がかかるというのが理由だが、それも時間の問題であり、南半球も含めた地球全域が汚染され、人類が滅亡する「人類最後の日」は刻一刻と近づいていた――という設定のSF作品。

 作中では北半球における生存者を探すミッションが行われたりもするが、結局は空振り。オーストラリアに生きる登場人物たちは、残された時間を各々で過ごし、最後の日を迎える。

 「自分は死ぬ」「逃れることはできない」「人類は滅ぶ」「一人残らず死ぬ」「人類は宇宙から消える」という受け入れがたい事実と絶望が、静謐ながらも真に迫った描写により読者の頭上にも少しずつ降り積もっていく。

 やがて迎える最後の日、従容として生と死に向き合う登場人物たちの姿には荘厳な感動を覚える。完全なバッドエンドのはずのラストシーンにおいては悲しみからではない涙が出る。「ヒューマニズムの傑作」と言われるのも納得の作品。

 ちなみに、原書の出版は1957年。第五福竜丸の被曝事件が1954年、キューバ危機の発生は1962年という時代感覚。出版当時にこの本を読んでいたら――と考えると途方もない気持ちになりますね。

 僕が読んだものは古書店で買ったものだったが、どうやら今は新訳版があるらしい。

 

  1. エミール・ゾラ著、古賀照一訳『居酒屋』

 ゾラの代表作であり、自然主義小説の代表作とも言える一作。

 傑作と言うより他にないが、筋立てとしては、主人公が人生を転がり落ちていくだけ。この世の終わりみたいな話。露悪的な悪趣味があるといったことも特になく、ただ淡々としんどい。しかし考えてみれば、ゾラはしんどい話しか読んだことがない。しかし考えてみれば、ゾラはしんどい話ばっかりだからあんまり読んでない。『居酒屋』続編の『ナナ』もまだ読めていない。

 

 

  1. 尾崎一雄『暢気眼鏡 虫のいろいろ』

 尾崎一雄の短編集。表題作「暢気眼鏡」を収録した短編集(原典)で芥川賞

 尾崎一雄は、この「暢気眼鏡」もの(「なめくぢ横丁」など)くらいしかまだ読めていないが、実はもっと読みたい作家。じゃあ読めよ。はい。

 どうでもいいけど、最初は尾崎行雄と混同してた。

 

 

  1. 永井荷風『濹東綺譚』

 永井荷風の代表作から一冊。

 私娼宿が立ち並ぶ玉の井を舞台に、作者本人を思わせる中年作家と娼婦お雪の交流を描く。

 作品自体がすごくいいのはもちろんのこと、有名作品であるだけに、関東大震災後の東京の変化、男性のミソジニーなど、めちゃくちゃ多様な論のモチーフとして引かれている作品で、一粒で何度でも美味しい。

 

 

  1. 川端康成『雪国』

 川端康成から一冊。

 『愛する人達』『少年』などとも迷ったけれどこちらに。

 一時期は完全に理解していたと思うんだけれど、最近では完全にわからなくなってしまった小説。

 2022年、作品の舞台となった宿に泊まりに行きました。めちゃくちゃ良い宿でめちゃくちゃ良い温泉だった。

 

 

  1. 筒井康隆『文学部唯野教授』

 筒井康隆氏による文学・文学史概論。

 同書の元ネタの一つであるイーグルトン『文学とは何か』でもよかったけれど、ゆるく読めるのがよいということでこちらをセレクト。

 

 

  1. 原民喜『夏の花・心願の国』

 詩人・小説家である原民喜の短編集。表題作である「夏の花」は原爆小説としてあまりにも有名であり、「心願の国」はその続編として位置付けられる作品。

 ただ、いざこの短編集を開いてみると、「夏の花」の前に待ち構えている作品群の美しさに目を瞠るのに忙しく、なかなか「夏の花」にたどり着くことができない。

 「美しき死の岸に」に代表される、作者と妻の生活を描いた一連の作品群の美しさには本当に圧倒される。かくも静謐でかくも美しい散文・小説が存在するのか、と未だに信じられない思いがしますね。

 

 

  1. マーガレット・ミッチェル著、長谷川康雄・竹内直之助訳『風と共に去りぬ』

 「明日は明日の風が吹く」という台詞であまりに有名な大河小説。また、「風と共に去」るものは、南北戦争の敗北により滅びゆくアメリカ南部の貴族文化であると見做すのが一般的。

 アメリカ南部の上流階級の令嬢スカーレット・オハラを主人公の半生を描いたストーリーであり、新潮文庫版では全5冊という壮大な小説。名曲「タラのテーマ」で知られる映画も3時間42分の長尺。話の内容も迫力満点。特に物語前半のハイライトを飾るアトランタ陥落前後の迫力は圧巻の一言。起こり得ぬことが起こっている。

 

 

  1. レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳『ロング・グッドバイ』

 ハードボイルド史に燦然と輝くチャンドラーの傑作を村上春樹氏が翻訳。当時のミステリランキング誌においては「翻訳史上の事件である」と評されていたように記憶しています。

 読了時には、「村上春樹の作品より村上春樹っぽい」と感じたことをよく覚えている。また、何らかのことを完全に理解したことも覚えているものの、果たして何を理解したのか、今となってはあやふやです。

 

 

  1. リング・ラードナー著、直良和美訳「笑顔がいっぱい」

 ラードナーの短編。小森収氏の編まれた『短編ミステリの二百年 1』で初めて読み、あまりの素晴らしさに衝撃を受ける。いくつか読んではみたものの全然わからずに棚上げにしていたロストジェネレーション世代の米文学が、この短編一発で完全に理解できたような衝撃に打たれたことをよく覚えています。

 もっとも、そういうことは割とよくあって、大抵はすぐに気のせいだったと気がついて事なきを得るのですが、この件に関しては未だに気のせいだったと気づけていない節があります。

 

 

  1. ウィリアム・フォークナー著、瀧口直太郎訳「エミリーにバラを」

 異常な小説的才能でもって、南北戦争後のディープ・サウスというトポスを舞台とした作品を書き続けたアメリカ文学最大の巨人の一人、フォークナーの短編。

 フォークナー作品の初読は『響きと怒り』であり、激甚な衝撃を受けたのですが、あまりにたいへんなので、比較的穏やかな短編ながら何かエッセンシャルなものを感じさせると言えそうな「エミリーにバラを」をセレクト。

 ちなみに、小森収氏の編まれた『短編ミステリの二百年 1』には本作も収録されています(訳は新訳)。

 

 

  1. トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳『ティファニーで朝食を』

 “恐るべき子供” カポーティの作品集。

 主演にオードリー・ヘプバーンを迎えて製作され、主題歌の ”Moon River” でも知られる同名の映画の原作となった表題作が流石に印象的。

 

 

  1. スコット・フィツジェラルド著、野崎孝訳『フィツジェラルド短編集』

 『グレート・ギャツビー』で有名なフィツジェラルドの短編集。訳者の野崎孝氏は『ライ麦畑でつかまえて』の訳業で有名ですね。

 名作揃いながら、特に冒頭の2作「氷の宮殿」「冬の夢」は流石に佳編と言うより他にないと思います。

 

 

  1. 柄谷行人『日本近代文学の起源』

 柄谷行人氏の著書から一冊。

 日本近代文学における論点を次々に提示する基礎文献。門外漢の僕から見ても実際提示しまくりでやばい基礎文献。

 人文系の学徒はみんな心のどこかでこういう本を書きたがってるんじゃないかな、そうでもないのかしら。

 

 

  1. 中上健次『岬』

 中上健次の短編集。

 表題作「岬」は、紀州に生まれた自身の複雑な家庭環境に取材しつつ、その紀州というトポスに神話的相貌を強力に読み込むなどして独自の文学世界を作り上げ、筆者の代表作となる「秋幸もの」の第1作。芥川賞

 もっとも、「岬」以外の収録作も、初期中上の荒々しく禍々しい野趣に富んだ魅力を湛えていて、つよい。「中上健次は勉強するとダメ」というテーゼについてこれ一冊を読んだだけでも色々と考えさせられる、そんな本でもある。

 

 

  1. 谷崎潤一郎『陰翳礼讃・文章読本』

 谷崎潤一郎を代表するエッセイ2本を表題作に掲げた一冊。特に好きなのはやはり前者。

 「陰翳礼讃」は、旧き日本の文化・美意識を謳い上げた作品として国内外で非常によく読まれており、谷崎が古典主義に目覚めたことを示す文章とされているが、いくら谷崎が声高に吠えようとも滅びゆくものへの挽歌であるという側面は拭いようがなく、どこか虚しく切ない。

 また、浅学非才の分際による印象批評で恐縮であるものの、「陰翳礼讃」には流石にこれはギャグだよねえ、筆者自身も自覚しているんじゃないかねえと思わせられる節も多く、それもまたどこか切ない。

 たとえば、僕が今までの人生で出会った中で最も美しく魅力的なトイレの描写が「陰翳礼讃」にあるので、その一部を引用すると、

 

私は、京都や奈良の寺院に行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が休まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、母屋を伝っていくのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。

…(中略)…

私はそう云う厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたたり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつつ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことができる。まことに厠は虫の音によく、鳥の音によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているだろう。

 

実に声に出して読みたい日本語であり、「全くその通りだ」と力強く頷いてしまいそうになる一方、ちょっと考えてみると、谷崎や古来の俳人たちは厠で物のあわれを嗜みつつ、尻を丸出しにして蹲り、踏ん張りながら下腹に強く力を入れ、そして尻をきれいに拭いてスッキリしているわけなので、流石にシリアスギャグである。

 ちなみに上の引用部は、「総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中に包むようにした」と続く。谷崎が「我等の祖先」の正当な末裔であることを要請すれば、この部分は忽ち上の文章についての自作解題の趣を呈する。

 ちなみに、同書においては、「陰翳礼讃」の次に「厠のいろいろ」という文章が掲載されているが、同文章においては、僕の知る限り最も美しく魅力的な排便の描写が堂々展開されている。文章のトーンを見る限り、こちらに関してははっきり笑ってよいと思われるものの、やっぱりなんだか少し切ない。

 

 

  1. 谷崎潤一郎『源氏物語』

 谷崎潤一郎が現代語訳した源氏物語。全訳。訳はいくつかあるのだが、おそらく最終的なバージョン。

 『あさきゆめみし』などを通ってこなかった僕が読んだ唯一の源氏物語の全訳。源氏物語の内容について読んだり聞いたりすることは今までの人生で何度もあったわけだけど、やはり全文に当たるとなると新しく知ることが目白押しでした。光源氏と紫の上は思っていたよりもだいぶ仲睦まじかった。

 やっぱり抄録とか概説で終わっちゃいけない、原典にちゃんと当たらないといけないなぁと改めて思いますね。「源氏物語」も生きている間に原文でちゃんと読みたいよね。

 

 

  1. 南條竹則『ドリトル先生の世界』

 作家・英文学者の南條竹則氏が執筆した、「ドリトル先生物語シリーズの解説書。

 「ドリトル先生シリーズの何を解説するの?」とみんな思う。僕もそう思った。しかし、読んでいくと実際面白い。必ずしも常に斬新奇抜な読みがあるというわけではなく、筆者の語り口からただのシリーズファンの顔がまろび出ているところも多々あるけれど、むしろそれが素敵。「オランダボウフウ」への愛がすごい。

 作品への愛といえば、南條氏は『ガブガブの本 「ドリトル先生」番外編』なる書籍の翻訳も行っており、その際には、日本で最も知られたドリトル先生の訳者である井伏鱒二氏の文体のエミュレートまで試みられている。ポリネシアの口調に若干の違和感があるかな?と思える点以外には文句がない出来で、しみじみと感動してしまいました。やっぱり井伏鱒二なんだよなぁ。

 

 

  1. 井伏鱒二『釣師・釣場』

 井伏鱒二のエッセイ集。井伏鱒二は、小説よりも断然エッセイの方が好き。ぼんやり読み流しているとなぜか少し元気が出る。

 井伏鱒二のエッセイのモチーフは多々あるが、ここに掲げたのは、そのうちの一つ「釣り」を中心に編んだ一冊。おまえ釣りするんだっけ? しないです。そもそもこの本に書かれてるような釣りをする人って21世紀の日本にいなくない? 多分いないです。何が面白くて読んでるの? ……まあ細かいことはいいじゃない。

 

 

  1. ジョゼフ・ギース & フランシス・ギース著、栗原泉訳『大聖堂・製鉄・水車』

 ヨーロッパ中世史の著述家として定評があるギース夫妻の著作から一冊。翻訳された彼らの著書には『中世ヨーロッパの城の生活』『都市の生活』『農村の生活』『結婚と家族』『騎士』など色々あって、どれも本格的な歴史叙述の書のようでいて面白い読み物として読むこともできてすごい。

 本書のテーマは「中世ヨーロッパのテクノロジー」。中世ヨーロッパにおける技術のありようや発展が描かれる。中世ヨーロッパというと、暗黒の時代・停滞の時代といったような印象が伝統的に根強く、技術的発展に対する印象もその枠を越えないのではないかと思われるが、そういったイメージはもういい加減に古いよねえというしみじみとした気持ちにもなる。

 

 

  1. アナトール・フランス著、三好達治訳『少年少女』

 近代フランスを代表する詩人・作家であるアナトール・フランスの短編集を、近代日本を代表する詩人である三好達治が翻訳。

 日本語訳は、フランス語原文の文章構成が透けて見えるような文章でありながらも、無骨さ・生硬さは感じさせず、それどころか完成された詩情を湛えているという異常なものであり、「これが詩人か…」とたまげてしまった。

 なお、訳者による「あとがき」においては、原文の魅力を称えたのちに、「残念ながら、訳文の方には、そういう貴重な文章の魅力は、役者の力の足りないせいや、その外いろんな理由のためにすっかり失われてしまっています。役者はそれを大変恥ずかしいことと思っていますが、読者はどうかそういう点は大目に見てお読みください」とあり、何が何だかさっぱりわからなくなってしまった。わからないまま今日に至ります。

 

 

  1. 弓削尚子『はじめての西洋ジェンダー史』

 ジェンダー史とそのヒストリオグラフィー(研究史。言うなれば「ジェンダー史の歴史」)を、初学者にも読みやすく解説する入門書。強力に面白い。個人的には、第4章「男女の身体はどう捉えられてきたか――身体史」が特に面白かった。

 ジェンダー論関係だと、最近新訳が出たロンダ・シービンガー『科学史から消された女性たち』なども強力に面白い。第8章「補完性の勝利」が勝利しすぎてる。

 

 

  1. 三浦篤『まなざしのレッスン』

 美術史家である三浦篤氏が執筆した、西洋美術史の入門書。

 教科書的に書かれているにもかかわらず、内容はおそろしく豊穣で、おそろしく面白い。僕は初めに手に取ったこの本に満足してしまったけど、他の視角からの良い入門書もあったりするのかなぁ。あるなら教えてほしい。

 その後、『日本美術を見る眼』などの高階秀爾の本を何冊か読んで「お、おもしれ〜〜」となるなどしたものの、その後の読書・鑑賞は全然捗っていない。悲しみ。

 

 

  1. ミシェル・フーコー著、阿部崇訳『マネの絵画』

 「狂気」「監獄」などなど、無数の業績を残したフーコーによるマネ論や、多数の論者によるフーコーとマネに関する論を集成した書籍。

 フーコーの本を挙げるのはいいが、なんでこんなマイナーな本選んだの?という疑問が当然上がるかなと思いますが、それは別に何か深い意図あってということはなく、怠惰な僕は分厚くなくて読みやすいこれくらいしか通読したことがないからです。お恥ずかしい限りです。だけど、これはこれで普通に読んで普通に面白いとは思うのよ……。

 

 

  1. 平野啓一郎『葬送』

 19世紀のパリを舞台とし、ショパンドラクロワを二大主人公に据えて展開される、壮大なスケールの歴史群像小説。とんでもない。これを二十代で書いてしまった平野啓一郎、人生でもうやること残ってないんじゃないかしらと不安に思ったものの、どうやらそういうわけでもないらしい。

 ドラクロワが描いたショパン肖像画についてのエピソードが全く不在だったことには少し驚いた。何か深淵なる意図があったのかしら。